コラム | 第41話 むさしキャンパス記 その2

その1の続きです。

P205 - 梅田へ出たときは「田園」「アダム」「マンハッタン」などがダベリ場所となった。 -

「田園」は 東通商店街角の4~5フロアほどある大きな喫茶店だったけど今はない。

大学1年生の6月のこと、1ヶ月バンド演奏のアルバイトに参加させられた。
エレベータ式ステージに乗って1時間に1回各階を演奏していく。
大学入学したての私のレパートリーは2曲しかなかったけど2曲で1ヶ月乗り切った。(汗)

「マンハッタン」はウエスタン喫茶。梅田東通商店街の1筋裏手「珉珉」の対面のビルを2階に上がったところ。
彼も行ってたんやなあ。
いつもカントリーのレコードがかかってた。
僕たちはマンハッタンのことを「ハッタン」行こか? なんて言ってた。
今はもう店はない。

当時のLPレコード1枚 1,800円くらい。学生ではなかなか買えなくて店のマスターが買ってくれる店用レコードが唯一カントリーの歌詞を書き写せる手段だった。
1度行くとマスターに頼んで4~5時間は歌詞を写してた。

大学2年生になると次第に神戸元町近くの「ロストシティ」が僕の音楽の修行場となっていった。
歌も楽器もうまい学生がいっぱい。
外人も多くて たまにベトナム戦争の休暇米兵とは彼らの休暇中毎晩朝が来るまでセッション。
そのころの僕のレパートリーノートには 200曲以上のカントリーソングがタイプされてた。
彼らは嬉しそうに歌ってたな。

P65に出てくるボストン生まれの英会話のP.K.ペーダー先生はカントリーソングが大嫌いだった。
PPMのフォークソングは良いと言ってたけど。

神戸港のメリケン波止場にあった米軍PXのエドワード軍曹には中古のギターを安く譲ってもらったな。
そのヤマハFG180フォークギターはまだ我が家にある。50年近くになる。
彼の唸るように歌うハンクウィリアムスのウェディング・ベルが僕は好きだった。

セイ子さん

当時 エドは1人で中山手通の広いマンションに住んでた。
たまに悪友2~3人で夜遅く泊まりに行く。

「エド!明日は英会話の先生のバイトやろ? 朝起きれる?」

「大丈夫!セイ子さんいるから」

エッ!彼女 おんの?

翌朝 目ざまし時計がうるさいほど鳴っている。セイ子さんは来ない。エド起きない。
目ざまし時計を止めに行く。

彼のベッドサイドには SEIKOの目ざまし時計が。。。。